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2009年08月28日

第616問

【第616問】
応仁の乱の勃発地とされる石碑が上御霊神社にあるが、この戦いは
何家の家督争いが発端となったか。

ア、細川家  イ、山名家  ウ、畠山家  エ、斯波家

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【第616問】

<解答> ウ、畠山家 

<解説> 室町幕府の第8代目の将軍であった足利義政は政治に関心を失い、結果的には応仁の乱を招いた張本人であるが、その主な原因となったのは義政の後継者争いであった。義政は当初、正妻である日野富子との間に子供がなく、弟である義視を後継者に指名した。しかし、その直後に富子との間に義尚が生まれたため後継者争いに発展し、義視側には細川勝元が、義尚側には富子の要請もあって山名宗全が味方して政治的な争いに発展した。ここに畠山家の家督騒動が勃発し、畠山政長には細川勝元が、畠山義就には山名宗全がバックアップしたため、この両陣営の戦いが発端となって、応仁の乱が始まった。
  畠山家、細川家斯波家は足利幕府の三管領と呼ばれ、この三家から管領職が選ばれた。またその下には四職(しきしょく)と呼ばれる役職があり、守護大名の赤松家、一色家、京極家、山名家 ( 土岐家も選出された ) がその地位を占めた。(2級)

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Posted by きょうすけ at 23:59│Comments(0)歴史・史跡
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