京つう

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2009年01月16日

第391問

【第391問】
京都に残る伝説で、報恩寺にあるものはどれか。

ア、蜘蛛塚  イ、登天石  ウ、弁慶石  エ、撞かずの鐘

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【第391問】

<解答> エ、撞かずの鐘

<解説> 報恩寺にあるのは撞かずの鐘である。かつて丁稚と織子が寺の撞く鐘の数を争った時、丁稚は8といい織子は9といって譲らない。負けた方は何でもするという約束で勝負することとなり、本来は9が正しかったが、丁稚は寺男に頼んで、その時だけ8つ撞くように画策した。負けた織子は丁稚に責め立てられ、悔しさと悲しさのあまり鐘楼に帯をかけて首をつって死んでしまった。以来、この鐘を撞くと不吉なことが起こるとされ、現在は特別な法要や大晦日しか撞かれなくなったという。
  蜘蛛塚は源頼光が病気で寝ているときに、怪しげな僧が忍び寄ってきた。目覚めた頼光が名刀 「 膝丸 」 で切りつけると、点々と血を流しながら逃げていったので、四天王に追わせると北野の社の大きな塚で血が途絶えていた。そこでその塚を掘りおこすと大きな蜘蛛が血を流してうごめいていた。渡辺綱が串刺しにして賀茂の河原にさらすと、たちまち頼光の病気が治ったという。登天石については、次のエピソードがある、。大宰府に流された菅原道真の師匠である尊意 ( そんい ) は、道真の霊を祈祷によって抑えるべく朝廷より呼び出された。比叡山を降りて御所へ向かうべく鴨川を渡ろうとすると、洪水となって渡れない。しかし尊意は慌てることなく数珠をひと揉みした。するとたちまち川が真っ二つに割れて、その真ん中に現れた石の上に道真が現れ、天に登っていったことから名がついた。弁慶石は弁慶が大変愛した石とされ、かつて弁慶が住んでいたこの付近の町名も弁慶石町となって現在まで残っている。その昔弁慶石は、弁慶が亡くなった奥州の高館 ( たかだち ) に移されたが、 「 三条京極へ帰りたい 」 とわめきだし、高館では病気も流行ったために、現在の場所へ送り返したという逸話も伝わっている。(3級)

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Posted by きょうすけ at 12:00│Comments(0)生活・行事
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