2014年07月24日
第2455問
【第2455問】
六波羅蜜寺について以下の文章で誤っているものはどれか。
ア、空也が応和3 ( 963 ) 年に鴨川の東岸に一堂を建て、当初は康徳寺と称した。
イ、空也が定めた本尊とは、十一面観音立像である。
ウ、桃山時代に真言宗智積院の末寺となり、現在も智山派に属している。
エ、付近に平清盛ら平家一門の屋敷が営まれ、鎌倉時代には六波羅探題が置かれた。
↓解答はこちら
六波羅蜜寺について以下の文章で誤っているものはどれか。
ア、空也が応和3 ( 963 ) 年に鴨川の東岸に一堂を建て、当初は康徳寺と称した。
イ、空也が定めた本尊とは、十一面観音立像である。
ウ、桃山時代に真言宗智積院の末寺となり、現在も智山派に属している。
エ、付近に平清盛ら平家一門の屋敷が営まれ、鎌倉時代には六波羅探題が置かれた。
↓解答はこちら
【第2455問】
<解答> ア、空也が応和3 ( 963 ) 年に鴨川の東岸に一堂を建て、当初は康徳寺と称した。
<解説> 西国三十三ヵ所観音霊場巡りの札所でもある六波羅蜜寺は、 「 市の聖 」 と敬われた空也が、応和3 ( 963 ) 年に鴨川の東岸に一堂を建て、西光寺と称したのが起こりである。当時疫病が蔓延していたため、空也は本尊とした十一面観音立像を車に乗せて引きながら歩き、念仏を唱え、病人に茶をふるまって多くの人を救ったという。
空也の死後、貞元2 ( 977 ) 年に中信が中興して天台別院とし、六波羅蜜寺と改称した。それ以降天台宗に属したが、桃山時代に真言宗智積院の末寺となり、現在も智山派に属している。平安末期には付近に平清盛ら平家一門の屋敷が営まれ、鎌倉時代には六波羅探題が置かれた。(2級)
<解答> ア、空也が応和3 ( 963 ) 年に鴨川の東岸に一堂を建て、当初は康徳寺と称した。
<解説> 西国三十三ヵ所観音霊場巡りの札所でもある六波羅蜜寺は、 「 市の聖 」 と敬われた空也が、応和3 ( 963 ) 年に鴨川の東岸に一堂を建て、西光寺と称したのが起こりである。当時疫病が蔓延していたため、空也は本尊とした十一面観音立像を車に乗せて引きながら歩き、念仏を唱え、病人に茶をふるまって多くの人を救ったという。
空也の死後、貞元2 ( 977 ) 年に中信が中興して天台別院とし、六波羅蜜寺と改称した。それ以降天台宗に属したが、桃山時代に真言宗智積院の末寺となり、現在も智山派に属している。平安末期には付近に平清盛ら平家一門の屋敷が営まれ、鎌倉時代には六波羅探題が置かれた。(2級)
Posted by きょうすけ at 19:38│Comments(0)
│神社・寺院