2015年09月20日
第2876問
【第2876問】
次のうち幕末から明治にかけて活躍した女性で、引退後は嵯峨野で直指庵に住みながら教育者となり、亀山公園に銅像がある女性は誰か。
ア、村山たか女 イ、大石順教尼 ウ、村岡局 エ、大田垣蓮月尼
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次のうち幕末から明治にかけて活躍した女性で、引退後は嵯峨野で直指庵に住みながら教育者となり、亀山公園に銅像がある女性は誰か。
ア、村山たか女 イ、大石順教尼 ウ、村岡局 エ、大田垣蓮月尼
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【第2876問】
<解答> ウ、村岡局
<解説> 村岡局 ( 津崎矩子・つざきのりこ ) は、大覚寺宮の家来、津崎左京の娘で、天明6 ( 1786 ) 年に嵯峨野に生まれた。尊王攘夷派の公家近衛家の侍女として江戸城に行き、水戸藩の鵜飼吉左衛門らと親交をもち、勤王の志士達と近衛家およびその他の公卿との連絡に当たり、さらに西郷隆盛らの運動を助け活躍したことから、安政5 ( 1858 ) 年に 「 安政の大獄 」 が起こると、捕らえられて江戸に送られた。その後、許されて北嵯峨の直指庵に隠居して付近の子女の教育に尽くし、嵯峨庶民の慈母と慕われたという。明治6 ( 1873 ) 年に88歳で没すると、里の子女の教育に尽くした彼女の功績を称え、大覚寺の大沢池畔に石碑、亀山 ( 嵐山 ) 公園には銅像が建てられた。
村山たか女は幕末に幕府側のスパイとしての活動を行ったことから、尊王攘夷の志士達に捕えられ、三条河原に晒された。その後、余生を金福寺で送っており、墓は圓光寺にある。大石順教尼は芸妓時代に事件に巻き込まれて両腕を切断するという苦難に遭いながらも、口に筆加えて見事は絵を描き、出家して障害者のための活動を行い、山科の勧修寺横に佛光院を創建した。大田垣蓮月尼は歌人であり陶芸家でもあったことから、陶芸に歌を入れるという作品が評判を呼んだ。慈善事業にも熱心に取り組み、晩年は洛北の神光院に過ごし、そちらで生涯を終えた。(2級)
<解答> ウ、村岡局
<解説> 村岡局 ( 津崎矩子・つざきのりこ ) は、大覚寺宮の家来、津崎左京の娘で、天明6 ( 1786 ) 年に嵯峨野に生まれた。尊王攘夷派の公家近衛家の侍女として江戸城に行き、水戸藩の鵜飼吉左衛門らと親交をもち、勤王の志士達と近衛家およびその他の公卿との連絡に当たり、さらに西郷隆盛らの運動を助け活躍したことから、安政5 ( 1858 ) 年に 「 安政の大獄 」 が起こると、捕らえられて江戸に送られた。その後、許されて北嵯峨の直指庵に隠居して付近の子女の教育に尽くし、嵯峨庶民の慈母と慕われたという。明治6 ( 1873 ) 年に88歳で没すると、里の子女の教育に尽くした彼女の功績を称え、大覚寺の大沢池畔に石碑、亀山 ( 嵐山 ) 公園には銅像が建てられた。
村山たか女は幕末に幕府側のスパイとしての活動を行ったことから、尊王攘夷の志士達に捕えられ、三条河原に晒された。その後、余生を金福寺で送っており、墓は圓光寺にある。大石順教尼は芸妓時代に事件に巻き込まれて両腕を切断するという苦難に遭いながらも、口に筆加えて見事は絵を描き、出家して障害者のための活動を行い、山科の勧修寺横に佛光院を創建した。大田垣蓮月尼は歌人であり陶芸家でもあったことから、陶芸に歌を入れるという作品が評判を呼んだ。慈善事業にも熱心に取り組み、晩年は洛北の神光院に過ごし、そちらで生涯を終えた。(2級)
Posted by きょうすけ at 23:59│Comments(0)
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