2015年03月02日
第2675問
【第2675問】
かつて都をどりは建仁寺のどの塔頭寺院で開催されたか。
ア、正伝永源院 イ、両足院 ウ、霊源院 エ、清住院
↓解答はこちら
かつて都をどりは建仁寺のどの塔頭寺院で開催されたか。
ア、正伝永源院 イ、両足院 ウ、霊源院 エ、清住院
↓解答はこちら
【第2675問】
<解答> エ、清住院
<解説> 都をどりは、明治5 ( 1872 ) 年の京都博覧会の附博覧として、祇園新橋小堀の松の屋という貸し席で行われ、翌明治6 ( 1873 ) 年には、花見小路通西側にあった建仁寺塔頭・清住院が歌舞練場として改造され、第2回会場として使用された。その後歌舞練場は、大正2 ( 1913 ) 年に現在の場所に移転した。現在、建仁寺の北西にある清住院は、もとの清住院が歌舞練場となったのを機に明治6 ( 1873 ) 年に移転したものである。
正伝永源院は織田有楽斎ゆかりの寺院であり、かつては国宝の茶室・如庵もこちらにあった。両足院は学問面と称される建仁寺の中心寺院であり、半夏生の名所としても知られている。霊源院は建仁寺の境内の南側にあり、歴代住持には五山派の代表的な学僧を輩出した。(2級)
<解答> エ、清住院
<解説> 都をどりは、明治5 ( 1872 ) 年の京都博覧会の附博覧として、祇園新橋小堀の松の屋という貸し席で行われ、翌明治6 ( 1873 ) 年には、花見小路通西側にあった建仁寺塔頭・清住院が歌舞練場として改造され、第2回会場として使用された。その後歌舞練場は、大正2 ( 1913 ) 年に現在の場所に移転した。現在、建仁寺の北西にある清住院は、もとの清住院が歌舞練場となったのを機に明治6 ( 1873 ) 年に移転したものである。
正伝永源院は織田有楽斎ゆかりの寺院であり、かつては国宝の茶室・如庵もこちらにあった。両足院は学問面と称される建仁寺の中心寺院であり、半夏生の名所としても知られている。霊源院は建仁寺の境内の南側にあり、歴代住持には五山派の代表的な学僧を輩出した。(2級)
Posted by きょうすけ at 23:59│Comments(0)
│芸術・文化