2013年10月24日
第2182問
【第2182問】
御寺と呼ばれる泉涌寺の別院で高い格式を持つ塔頭寺院はどこか。
ア、雲龍院 イ、即成院 ウ、来迎院 エ、今熊野観音寺
↓解答はこちら
御寺と呼ばれる泉涌寺の別院で高い格式を持つ塔頭寺院はどこか。
ア、雲龍院 イ、即成院 ウ、来迎院 エ、今熊野観音寺
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【第2182問】
<解答> ア、雲龍院
<解説> 泉涌寺の別院としての格式を持つ雲龍院は、応安5 ( 1372 ) 年に後光厳上皇によって竹巌聖皐 ( ちくがんしょうこう )を開山として創建された。後円融・後小松天皇の厚い帰依を受けて発展し、文亀2 ( 1502 ) 年には後柏原天皇より後土御門天皇の御黒戸御殿を賜って写経道場となった。その後は兵火や地震による倒壊などがあって一時衰退したが、寛永16 ( 1639 ) 年に中興の祖である如周正専 ( じょしゅうしょうせん ) が後水尾上皇の援助のもとで修復し、黒戸御殿をはじめ諸堂が再建され、現在に至っている。
即成院は橘俊綱が伏見に創建し、明治35 ( 1902 ) 年に現在地に移された。那須与一の墓があり、阿弥陀如来および二十五菩薩坐像が重要文化財となっている。来迎院は弘法大師が創建した寺院であり、茶室の含翠軒 ( がんすいけん ) は檀家となった大石内蔵助が寄進したものである。今熊野観音寺も空海が創建し、後白河天皇の病気平癒の逸話から頭痛封じのご利益で知られ、西国三十三ヵ所観音霊場の第15番目の札所である。(3級)
<解答> ア、雲龍院
<解説> 泉涌寺の別院としての格式を持つ雲龍院は、応安5 ( 1372 ) 年に後光厳上皇によって竹巌聖皐 ( ちくがんしょうこう )を開山として創建された。後円融・後小松天皇の厚い帰依を受けて発展し、文亀2 ( 1502 ) 年には後柏原天皇より後土御門天皇の御黒戸御殿を賜って写経道場となった。その後は兵火や地震による倒壊などがあって一時衰退したが、寛永16 ( 1639 ) 年に中興の祖である如周正専 ( じょしゅうしょうせん ) が後水尾上皇の援助のもとで修復し、黒戸御殿をはじめ諸堂が再建され、現在に至っている。
即成院は橘俊綱が伏見に創建し、明治35 ( 1902 ) 年に現在地に移された。那須与一の墓があり、阿弥陀如来および二十五菩薩坐像が重要文化財となっている。来迎院は弘法大師が創建した寺院であり、茶室の含翠軒 ( がんすいけん ) は檀家となった大石内蔵助が寄進したものである。今熊野観音寺も空海が創建し、後白河天皇の病気平癒の逸話から頭痛封じのご利益で知られ、西国三十三ヵ所観音霊場の第15番目の札所である。(3級)
Posted by きょうすけ at 10:00│Comments(0)
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