2013年10月06日
第2165問
【第2165問】
嵐山公園に祀られている銅像といえば誰か。
ア、村山たか女 イ、紫式部 ウ、津崎矩子 エ、大田垣蓮月
↓解答はこちら
嵐山公園に祀られている銅像といえば誰か。
ア、村山たか女 イ、紫式部 ウ、津崎矩子 エ、大田垣蓮月
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【第2165問】
<解答> ウ、津崎矩子
<解説> 村岡局 ( 津崎矩子・つざきのりこ ) は、大覚寺宮の家来であった津崎左京の娘で、天明6 ( 1786 ) 年に嵯峨野に生まれた。尊王攘夷派の公家近衛家の侍女として江戸城に行き、水戸藩の鵜飼吉左衛門らと親交をもち、勤王の志士達と近衛家およびその他の公卿との連絡に当っていたが、西郷隆盛らの運動を助け活躍が目立ったことから、安政5 ( 1858 ) 年に 「 安政の大獄 」 が起こると、捕らえられて江戸に送られた。その後、許されて北嵯峨の直指庵に隠居し、付近の子女の教育に尽くしたことから嵯峨庶民の慈母と慕われた。明治6 ( 1873 ) 年に88歳で没すると、里の子女の教育に尽くした彼女の功績を称えて大覚寺の大沢池畔に石碑、亀山 ( 嵐山 ) 公園には銅像が建てられた。
村山たか女はかつての井伊直弼の愛人であり、 「 安政の大獄 」 では幕府側のスパイとして暗躍したため、尊王攘夷の過激派に捕えられ、三条河原で晒された。その後、金福寺で余生を過ごし、墓は同地域の圓光寺にある。紫式部は 『 源氏物語 』 を執筆し、その舞台となった宇治では宇治橋の袂に銅像が建てられている。大田垣蓮月 ( おおたがきれんげつ ) は、幕末から明治の歌人であり陶芸家である。晩年は西賀茂の神光院で余生を過ごし、現在も境内には過ごした建物が残されている。(2級)
<解答> ウ、津崎矩子
<解説> 村岡局 ( 津崎矩子・つざきのりこ ) は、大覚寺宮の家来であった津崎左京の娘で、天明6 ( 1786 ) 年に嵯峨野に生まれた。尊王攘夷派の公家近衛家の侍女として江戸城に行き、水戸藩の鵜飼吉左衛門らと親交をもち、勤王の志士達と近衛家およびその他の公卿との連絡に当っていたが、西郷隆盛らの運動を助け活躍が目立ったことから、安政5 ( 1858 ) 年に 「 安政の大獄 」 が起こると、捕らえられて江戸に送られた。その後、許されて北嵯峨の直指庵に隠居し、付近の子女の教育に尽くしたことから嵯峨庶民の慈母と慕われた。明治6 ( 1873 ) 年に88歳で没すると、里の子女の教育に尽くした彼女の功績を称えて大覚寺の大沢池畔に石碑、亀山 ( 嵐山 ) 公園には銅像が建てられた。
村山たか女はかつての井伊直弼の愛人であり、 「 安政の大獄 」 では幕府側のスパイとして暗躍したため、尊王攘夷の過激派に捕えられ、三条河原で晒された。その後、金福寺で余生を過ごし、墓は同地域の圓光寺にある。紫式部は 『 源氏物語 』 を執筆し、その舞台となった宇治では宇治橋の袂に銅像が建てられている。大田垣蓮月 ( おおたがきれんげつ ) は、幕末から明治の歌人であり陶芸家である。晩年は西賀茂の神光院で余生を過ごし、現在も境内には過ごした建物が残されている。(2級)
Posted by きょうすけ at 10:00│Comments(0)
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