2013年04月25日
第2003問
【第2003問】
宇治に別荘を構えた人物ではないのは誰か。
ア、源融 イ、藤原頼通 ウ、橘俊綱 エ、平重衡
↓解答はこちら
宇治に別荘を構えた人物ではないのは誰か。
ア、源融 イ、藤原頼通 ウ、橘俊綱 エ、平重衡
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【第2003問】
<解答> エ、平重衡
<解説> 平重衡 ( たいらのしげひら ) は平清盛の五男で、 「 南都焼き討ち 」 の総指揮をとった武将である。その後、 「 一の谷の合戦 」 で敗れて捕えられ、鎌倉に護送されて頼朝の厚遇を受けたが、先の焼き討ちで恨みを抱く興福寺の要求によって身柄は奈良に運ばれ、その入口の木津にて斬首された。先の 「 壇の浦の戦い 」 で捕虜となっていた妻の輔子が伏見の日野に住んでおり、重衡が奈良へと連れられる際に最後の別れを惜しんだとされ、その場所には現在重衡の墓も残されている。
その他の選択肢の人物は、全て宇治に別荘を構えた人物である。『 源氏物語 』 の光源氏のモデルとなったとされる源融 ( みなもとのとおる ) は、平安前期に宇治に別荘を構えたとされる。その後、平安中期にはその場所に藤原道長が別荘を構え、子である藤原頼通に受け継がれて現在の平等院となった。さらに頼通の子である橘俊綱 ( たちばなのとしつな ) も宇治の平等院の対岸に別荘を構えたとされ、それが現在の即成院の前身となった。(3級)
<解答> エ、平重衡
<解説> 平重衡 ( たいらのしげひら ) は平清盛の五男で、 「 南都焼き討ち 」 の総指揮をとった武将である。その後、 「 一の谷の合戦 」 で敗れて捕えられ、鎌倉に護送されて頼朝の厚遇を受けたが、先の焼き討ちで恨みを抱く興福寺の要求によって身柄は奈良に運ばれ、その入口の木津にて斬首された。先の 「 壇の浦の戦い 」 で捕虜となっていた妻の輔子が伏見の日野に住んでおり、重衡が奈良へと連れられる際に最後の別れを惜しんだとされ、その場所には現在重衡の墓も残されている。
その他の選択肢の人物は、全て宇治に別荘を構えた人物である。『 源氏物語 』 の光源氏のモデルとなったとされる源融 ( みなもとのとおる ) は、平安前期に宇治に別荘を構えたとされる。その後、平安中期にはその場所に藤原道長が別荘を構え、子である藤原頼通に受け継がれて現在の平等院となった。さらに頼通の子である橘俊綱 ( たちばなのとしつな ) も宇治の平等院の対岸に別荘を構えたとされ、それが現在の即成院の前身となった。(3級)
Posted by きょうすけ at 21:19│Comments(0)
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