2013年04月21日
第1999問
【第1999問】
金戒光明寺にお墓がある人物ではないのは誰か。
ア、海北友松 イ、八橋検校 ウ、竹内栖鳳 エ、鳥居元忠
↓解答はこちら
金戒光明寺にお墓がある人物ではないのは誰か。
ア、海北友松 イ、八橋検校 ウ、竹内栖鳳 エ、鳥居元忠
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【第1999問】
<解答> ア、海北友松
<解説> 海北友松 ( かいほくゆうしょう ) は、近江の浅井家の家臣の子に生まれ、父が戦死したことにより絵師へと転身を遂げた。狩野派に学んだとも伝わるが、力強く鋭い画線と空間を生かした簡素な構成に独自の世界を見出した。安国寺恵瓊と親しかったこともあり、恵瓊が住持を務めた建仁寺の方丈に全50面の障壁画を残しており、彼自身はもちろん安土桃山時代の代表作となっている。しかし、第一次室戸台風 ( 昭和9 ( 1943 ) 年 ) によって方丈が倒壊した際に破損したこともあり、大型の掛け軸に改装された。現在は、親交があった明智光秀の家臣・斎藤利三 ( 春日局の父 ) とともに真如堂の墓地に眠っている。
琴の名手として活躍した八橋検校、戦前の京都画壇の重鎮であった竹内栖鳳、徳川家康の股肱の家臣として伏見城で戦死した鳥居元忠はいずれも金戒光明寺の墓地に眠っている。金戒光明寺には、会津藩の藩士が眠る会津墓地の他に、京都府三代目知事である北垣国道や、京都商工会議所初代会頭を務めた高木文平や、徳川秀忠正室であるお江、その子である徳川忠長、徳川家光の乳母である春日局、源平合戦で活躍した熊谷直実や平敦盛、関ヶ原の戦いで石田三成を捕らえた田中吉政などの墓がある。(2級)
<解答> ア、海北友松
<解説> 海北友松 ( かいほくゆうしょう ) は、近江の浅井家の家臣の子に生まれ、父が戦死したことにより絵師へと転身を遂げた。狩野派に学んだとも伝わるが、力強く鋭い画線と空間を生かした簡素な構成に独自の世界を見出した。安国寺恵瓊と親しかったこともあり、恵瓊が住持を務めた建仁寺の方丈に全50面の障壁画を残しており、彼自身はもちろん安土桃山時代の代表作となっている。しかし、第一次室戸台風 ( 昭和9 ( 1943 ) 年 ) によって方丈が倒壊した際に破損したこともあり、大型の掛け軸に改装された。現在は、親交があった明智光秀の家臣・斎藤利三 ( 春日局の父 ) とともに真如堂の墓地に眠っている。
琴の名手として活躍した八橋検校、戦前の京都画壇の重鎮であった竹内栖鳳、徳川家康の股肱の家臣として伏見城で戦死した鳥居元忠はいずれも金戒光明寺の墓地に眠っている。金戒光明寺には、会津藩の藩士が眠る会津墓地の他に、京都府三代目知事である北垣国道や、京都商工会議所初代会頭を務めた高木文平や、徳川秀忠正室であるお江、その子である徳川忠長、徳川家光の乳母である春日局、源平合戦で活躍した熊谷直実や平敦盛、関ヶ原の戦いで石田三成を捕らえた田中吉政などの墓がある。(2級)
Posted by きょうすけ at 21:26│Comments(0)
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