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2012年05月27日

第1670問

【第1670問】
平安中期に遣唐使船中止を奏上し、認められたのは誰か。

ア、菅原道真  イ、三善清行  ウ、在原業平  エ、藤原清貫

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【第1670問】

<解答> ア、菅原道真

<解説> 菅原道真は中流貴族の出身ながら、明晰な頭脳と深い学識、歯に衣着せぬ発言で頭角を現し、時の宇多天皇に重用されて異例の出世を遂げた。これに危惧を抱いた藤原氏は遣唐使に任命するという手段に出たが、道真は日本文化の成熟と中国の政情不安を理由に遣唐使中止を奏上して認められ、さらに醍醐天皇の時代には右大臣にまで昇り詰めた。これに対して左大臣藤原時平は道真を醍醐天皇に讒言して、大宰府に左遷することに成功する。この事件の裏側には道真のライバルであった三善清行 ( みよしきよつら ) もいたとも伝えられるが、多くの中流貴族も道真の急激な改革に不安を覚えたのも事実である。道真は家族や親交が深かった在原業平 ( ありわらのなりひら ) など一部の貴族に惜しまれながら大宰府の地で亡くなった。
 その後、都には道真の祟りとも噂される疫病、天変地異などが続発し、後に清涼殿落雷事件とも呼ばれる大規模な落雷では清涼殿にいた貴族たちに大きな被害が出た。中でも道真の大宰府左遷で直接道真を訪ねることもあった藤原清貫 ( ふじわらのきよつら ) は直撃を受けて即死するなど大きな混乱をきたし、これを目の当たりにした醍醐天皇は三ヶ月後に崩御された。このため、道真を右大臣に復し、さらに左大臣、太政大臣と官位を授け、北野天満宮に祀ることで祟りを鎮めようとしたのである。(3級)

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Posted by きょうすけ at 10:00│Comments(0)歴史・史跡
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