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2012年05月22日

第1665問

【第1665問】
羽柴秀吉と明智光秀が激突した天王山の戦いで、秀吉軍に属した茨木城主はだれか。

ア、中川清秀  イ、筒井順慶  ウ、高山右近  エ、丹羽長秀

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【第1665問】

<解答> ア、中川清秀

<解説> 茨木城主で明智光秀の組下大名であった中川清秀 ( なかがわきよひで ) は、本能寺の変の後に、光秀ではなく秀吉側につき、 「 天王山の戦い 」 では最前線の指揮をとって天王山を押さえる活躍を見せている。その後起こった 「 賤ヶ岳の戦い 」 でも秀吉軍の一翼を担ったが、柴田勝家配下の佐久間盛政軍の猛攻あって戦死した。
 筒井順慶 ( つついじゅんけい ) も明智光秀の指揮下で信頼を得ていた郡山城主であったが、 「 天王山の戦い 」 では日和見主義を決め、結果的には秀吉に加担することとなった。俗説としては、順慶は洞ヶ峠まで進出して中立を保ったため、日和見主義のことを 「 洞ヶ峠を決め込む 」 という言葉が生まれたという。しかし、事実洞ヶ峠にやってきたのは光秀の方で、ここで光秀は順慶の合流を促したが順慶は応じず、諦めた光秀は直属の家臣だけで秀吉との決戦に臨むこととなった。高山右近 ( たかやまうこん ) も明智光秀の組下大名で高槻城主あったが、中川清秀同様に秀吉につき、先鋒隊として活躍した。丹羽長秀 ( にわながひで ) は、秀吉同様に織田信長の重臣として活躍していたが、 「 本能寺の変 」 に際しては、軍勢を四国に渡した直後で、単独で光秀を討つことはできず、秀吉に従って 「 天王山の戦い 」 に臨んだ。

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Posted by きょうすけ at 10:00│Comments(0)歴史・史跡
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