2010年08月20日
第1023問
【第1023問】
「 椿寺 」 として親しまれる地蔵院には誰の墓があるか。
ア、天野屋利兵衛 イ、島左近 ウ、姉小路公知 エ、有馬新七
↓解答はこちら
「 椿寺 」 として親しまれる地蔵院には誰の墓があるか。
ア、天野屋利兵衛 イ、島左近 ウ、姉小路公知 エ、有馬新七
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【第1023問】
<解答> ア、天野屋利兵衛
<解説> 地蔵院には忠臣蔵での名セリフ 「 天野屋利兵衛は男でござる! 」 で知られる天野屋利兵衛の墓がある。もともと行基が摂津の国に創建したが、室町時代に入って足利義満によって衣笠山付近に移され、天正年間に現在地に再興された。寺院の通称名となった境内の椿は、豊臣秀吉の寄進と伝わる。
島左近は戦国時代の名高き勇将で、関ヶ原の戦いでは石田三成の家臣として獅子奮迅の活躍を見せた。その後は、戦死したとする説や立本寺に身を寄せたとする説もあり、立本寺の境内には島左近の墓がある。姉小路公知は幕末に三条実美と並ぶ尊王攘夷派の公家であったが、何者かによって御所の猿ヶ辻で暗殺された。その墓は御所東の清浄華院にある。有馬新七は薩摩藩の尊王攘夷派の急先鋒で、伏見にある寺田屋にて薩摩藩の島津久光から遣わされた鎮撫使と壮絶な斬り合いとなって死亡した。その墓は、薩摩藩九烈士の墓として薩摩藩の菩提寺である大黒寺に作られ、現在でも参拝者が訪れる。(3級)
<解答> ア、天野屋利兵衛
<解説> 地蔵院には忠臣蔵での名セリフ 「 天野屋利兵衛は男でござる! 」 で知られる天野屋利兵衛の墓がある。もともと行基が摂津の国に創建したが、室町時代に入って足利義満によって衣笠山付近に移され、天正年間に現在地に再興された。寺院の通称名となった境内の椿は、豊臣秀吉の寄進と伝わる。
島左近は戦国時代の名高き勇将で、関ヶ原の戦いでは石田三成の家臣として獅子奮迅の活躍を見せた。その後は、戦死したとする説や立本寺に身を寄せたとする説もあり、立本寺の境内には島左近の墓がある。姉小路公知は幕末に三条実美と並ぶ尊王攘夷派の公家であったが、何者かによって御所の猿ヶ辻で暗殺された。その墓は御所東の清浄華院にある。有馬新七は薩摩藩の尊王攘夷派の急先鋒で、伏見にある寺田屋にて薩摩藩の島津久光から遣わされた鎮撫使と壮絶な斬り合いとなって死亡した。その墓は、薩摩藩九烈士の墓として薩摩藩の菩提寺である大黒寺に作られ、現在でも参拝者が訪れる。(3級)
Posted by きょうすけ at 23:59│Comments(0)
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